7. 永遠の飛行少年たち(1)
子供の頃から飛行機好きで、授業中の教科書
や帳面の余白は飛行機のイラストで一杯になる。
帰宅すれば表具師だったトッチャの仕事場で、
襖紙の切れ端へ小松崎茂や高荷義之の巻頭イラ
ストを書き写し、プロ級の腕前の次兄と腕を競
った。
昭和28年頃には、木製のソリッドモデルから、
簡便な「三共」や「マルサン」のプラスチック
模型が出始め模型店へ日参した。
高価で買えなかったのが、アメリカ「モノグ
ラム社」製の超精密モデルで、リアル感は現在
でも垂涎ものである。
6年生の授業中、500メートル程離れた弘大の
南塘グラウンドへ、怪我人を乗せた米軍の大型
ヘリコプターが着陸した。興奮のあまり頭の中
は真っ白、気がついたらが級友の男子生徒全員
と現場に走っていた。学校へ戻ってから校長室
に正座させられての説教も、初めて見たヘリコ
説プターの巨大さと耳に残った爆音で聞こえな
かった。
青森空港も最近は海外からのチャーター便が
多く、航空無線に情報が入る度に飛んで行く。
送迎デッキはカメラ片手のマニアたちが忙し
そうに飛行機を追っているが、青森市に住む山
下 大輔君(当時19歳)もその一人だった。
将来は外国の旅客機パイロットになりたいと
壮大な夢を語ってくれ、2年後にはカナダのフ
ライトスクールに入学していた。ホームステイ
先から届く手紙には、勉強が忙しくホームシッ
クになっている暇のないことや、英語の教科書
も半年くらいで余裕が出て来た事、そしてカナ
ダの大自然をバックにフライトする写真が満載
されていた。 9月からはアメリカで業務用双発
機に挑戦する。(氏は現在、宮崎ソ・ラシド航
空のB737副パイロット 2015.11)
8. 永遠の飛行少年たち(2)
5月に訪ねた三沢の淋代海岸は、快晴にもかかわらず冷たい北東風と紺青の荒波で、日本海とは違った様相を見せていた。昭和初期に、この地から遥か8000キロメートル先のアメリカを目指した空の冒険家たちがいた事を知ったのは、ジェームス・スチュワート主演映画『翼よあれがパリの灯だ』を見て間もなくのことだった。
リンドバーグの知名度に比べると、なんと寂しい
事かと当時は腹立たしい思いだったが、資料を収集
するにつれ納得せざるを得なくなった。
昭和2年5月、リンドバーグが「スピリット・オ
ブ・セントルイス号」で大西洋を横断した翌年、日
本では五戸町出身の木村秀政氏が強度試験を担当し
た「桜号」( 川西製・リンドバーグのライアン機と同じ高翼単葉機 )が、太平洋横断に挑戦しようとするが、当時の航空法の重量制限で断念。
昭和5年、アメリカ青年ハロルド・ブロムリーとハロルド・ゲッティが「タコマ市号」で茨城県の霞ヶ関から出発したが、ガソリンの積み過ぎと滑走路が短く失敗。再度、淋代から挑戦するが24時間後に故障して東通村の尻労に不時着。
昭和6年、日本人の手で太平洋無着陸横断を成功させようと、報知新聞社が企画を発表。5月5日「報知日米号」と名付けられたドイツ製の水上機が小川原湖から離水したが、新知島上空で故障し不時着水。
今度こそはと準備した「第3報知日米号」が、淋代を出発はしたが色丹島上空で行方不明となり、いまだ発見されていない。
この後も挑戦は続くが、この模様を後世に語り継ごうと活動する熱き県人たちがいた。