1964年1月4日 大館駅午前6時集合予定だったが、乳井が遅れ登山口の百沢の岩木山神社前に着いたのは正午。12時5分百沢を出発、積雪1mほどを踏み分けながら三合目「姥石」に14時40分到着も疲労のため営林局避難小屋に一泊。

1月5日 8時40分に「姥石」を出発、「焼止」に10時55分到着。小屋近くにBC設営。

1月6日 三ッ倉は装備不足から焼止BCに残る。

7時45分BCを出発。種蒔苗代まで相馬村今氏と交互にラッセルも吹雪のためはぐれてしまう。11時10分山頂に立ち石室で昼食。正午に下山開始、2時間経つも焼止BCに着かず実際は九合目「岳温泉下山口」付近を彷徨っていたのだ。風速20m、気温ー2℃、体感温度はー40°相当の寒気に襲われた。村井と乳井は頂上に戻ることを主張したが、畠山と金沢が下山を主張、リーダー石田は下山を選ぶ。夜半に乳井が「もう里近くまで来ているはずだから自分が助けを呼びに行く」と村井に進言。村井がうとうとしている間に乳井は装備をすべて置いて出発。(以降、生還した村井秀芳の「生還記録」へ続く)

 その頃、焼止避難小屋の三ッ倉は外で声がするので出てみると弘前高校・山岳部4人が来ていた。翌7日朝、弘高生4人と三ッ倉は頂上を目指したが、三ッ倉の疲労が激しいので百沢に降りて警察に連絡することにした。
 午前11時ごろ、食堂を経営する藤田忠志は下山してきた三ッ倉から事情を聞き、弘前署大浦派出所に連絡。弘前署は派出所から連絡を受け救助隊の編成をはじめたが、当時は冬山捜索の装備などなかった。

 「頂上から360度捜索すべき」と主張した弘前大学山岳部や、当時、弘前高校生で後年に山岳家となった根深誠らの意見は年少者の意見ということで全く取り上げられなかった。さらには、遭難した高校生の地元、秋田県大館から駆けつけた山岳者や山岳部OBといった人たちも「よそ者」扱いされた。対策本部は食料や燃料を山頂に運び、百沢方面でのみ3日間でのべ500人を超える大捜索を行なったが何の手がかりもつかめなかった

 (生還した村井秀芳の「生還記録」から)

1月7日 夜が明け朝食後、出発したがリーダー石田は責任感と極度の疲労から村井、乳井、畠山の三人が交代でラッセル。正午頃、石田は歩行困難となり意識朦朧とし倒れる。15時頃、金沢も力つき岩陰にビバーク。

1月8日 朝、石田、金沢は氷のように冷たくなっていた。乳井は救助を求め単独で下山した模様。村井と畠山は石田、金沢に別れを告げ乳井の足跡を追い下山。正午頃、畠山は川に落ち込み体力と体温を奪われ倒れた。村井は畠山を岩陰に休ませビスケットとラジオを持たせ乳井を追跡。夕方、沢から這い上がり雑木林の中で一夜を明かす。

1月9日 脚部に感覚が無く幾度も倒れながら石神神社(海抜680m、山頂まで4,100m地点)の前で「乳井」と怒鳴ったが、立ち寄った形跡も無く、そのまま通過。雑木林で一夜明かす。

1月10日 今日も頑張って歩き雑木林から広々とした牧場のようなところに出た。蛇行した乳井の足跡を踏み外さないようにかなり歩いたが、疲労のため座り込んでしまう。(実際には2km程度より歩いていない)

 13時頃、物音がするので「だれだ」と叫ぶと先方でも「だれだ」と声をかけて走り寄って来た。鯵ケ沢からの救助隊だった。「乳井が下の方にいるので、すぐ捜索してくれ」と懇願し夜間捜索されたが発見出来なかった。村井は長平部落までの2km背負わされ、長平からは4kmジープで鯵ヶ沢中央病院まで運ばれた。こうして村井発見の通報によって無念にも翌1月11日に畠山、12日には石田と金沢、14日には乳井が、それぞれ遺体で発見され8日間の捜索にも終止符をうった。

 


文章、地図は下記資料を参考にしました。

「空と山のあいだ」

    岩木山遭難・大館鳳鳴高校生の五日間

                                          田澤 拓也 著

「遭難誌」

              岩木嶺に眠る兒らに

                          秋田県立大館鳳鳴高校 著

HP 「王子のきつね on Line」