1516.5m 十和田市 


                                               2017.2.13 加筆
                                               2017.2.13 加筆
                                      1988.5.7  「櫛ケ峯」斜面
                                      1988.5.7  「櫛ケ峯」斜面

旧制弘前高等学校生 八甲田山遭難
 昭和18年(1943年)2月、弘前高等学校で行われたハ甲田山スキー行軍に参加した44名は、生涯に只一度と言える経験をした。それが、まかり間違えば第二の「八甲田山雪中遭難事件」となり得るものであったことは、参加した者のみが知りうることで、厳寒と猛吹雪の八甲田山中で、おそらく殆どの者が死と向き合っていたと思う。
 酸ケ湯の宿に戻りつくことが出来た時の「助かった」「生きて帰れた」という強烈な実感を忘れることはできない。そして日時が経つとともに、今度は「どうしてあのような危険なところへ行ったのか。」「何のためにあの行軍が行われたのだろう。」との疑問が湧いきた。(「八甲田山」編集者・松浦光二)



「よじ登る意欲もない、只ぼうぼうと風に逆らえず立ち尽くすだけである。外側から見ると亡霊の如き四十四名の遭難者の一団が、更に夫々の身体の内側は寒さで震え全身痛がっている。
 寒い寒い寒い腹が減った、手と足の指が痛い、露出している顔面は付いた雪が融けてすぐ
凍り感覚がなくなっている。歯がカチカチと音をたてるのを止めようもない。身体全体もう何時間も震えが止まらない。時々「眠るな」「枝とってこい」との声が聞こえる。そのままうずくまってしまい、それでも眠るまいと身体を動かしている姿もある。眠ったらそのまま「立ち往生=死」とだけは誰もが知ってた。 長い長い時間が経っていった。何の希望も抱ける状態ではない。ただ、朝が早く来ないかと、密かに
思っているだけである。その時、四十四名全てが死の寸前だった。昭和十八年(一九四三年)二月二十四日の夕方から、その遅い朝まで吹きまくっていたが、それでもその猛吹雪は奇蹟的に一夜で終わった。若しあと半日続いていたら、この集団は全滅していた。

                        同書から 松浦 光二(二十二回分乙卒)