八甲田で最初のスキーツアー遭難事故
無雪期の「七十森山」(885m)は濃いヤブと急登で人を寄せ付けない。5月の残雪期ならと挑戦も長いアプローチに違和感があり引き返した事も。
後日、青森市営スキー場の歴史調べで「青森林友スキー史・樹林を縫って」に「七十森山」と「田代元湯」を目指す、八甲田最初のスキーツアー遭難記が。スキーの疲れと冷えた身体を日帰り温泉でと楽しいツアーが、3日間に及ぶ死の彷徨になろうとは。17名中9人が帰らぬ人となったが「五連隊」遭難者発見場所と重なる不運。
・・・・・・・・・・・・・青森林友スキー史「樹林を縫って」(1982年発行)を参考にしています。
※ 追記【同じ昭和14年1月9日にも高森鉱山で雪崩事故が】
1939年午前2時、同鉱山宿舎で大雪崩発生、一家5名他1名の計6名が圧死。(東奥日報 1月9日付け)
「青森歩兵第五連隊」と「高森鉱山職員」の遭難地図を重ねると遭難者発見場所が一部重なる
高森鉱山と上北鉱山の索道&軌道
旧制弘前高等学校生 八甲田山遭難
昭和18年(1943年)2月、弘前高等学校で行われたハ甲田山スキー行軍に参加した44名は、生涯に只一度と言える経験をした。それが、まかり間違えば第二の「八甲田山雪中遭難事件」となり得るものであったことは、参加した者のみが知りうることで、厳寒と猛吹雪の八甲田山中で、おそらく殆どの者が死と向き合っていたと思う。
酸ケ湯の宿に戻りつくことが出来た時の「助かった」「生きて帰れた」という強烈な実感を忘れることはできない。そして日時が経つとともに、今度は「どうしてあのような危険なところへ行ったのか。」「何のためにあの行軍が行われたのだろう。」との疑問が湧いきた。(「八甲田山」編集者・松浦光二)
「よじ登る意欲もない、只ぼうぼうと風に逆らえず立ち尽くすだけである。外側から見ると亡霊の如き四十四名の遭難者の一団が、更に夫々の身体の内側は寒さで震え全身痛がっている。
寒い寒い寒い腹が減った、手と足の指が痛い、露出している顔面は付いた雪が融けてすぐ凍り感覚がなくなっている。歯がカチカチと音をたてるのを止めようもない。身体全体もう何時間も震えが止まらない。時々「眠るな」「枝とってこい」との声が聞こえる。そのままうずくまってしまい、それでも眠るまいと身体を動かしている姿もある。眠ったらそのまま「立ち往生=死」とだけは誰もが知ってた。 長い長い時間が経っていった。何の希望も抱ける状態ではない。ただ、朝が早く来ないかと、密かに
思っているだけである。その時、四十四名全てが死の寸前だった。昭和十八年(一九四三年)二月二十四日の夕方から、その遅い朝まで吹きまくっていたが、それでもその猛吹雪は奇蹟的に一夜で終わった。若しあと半日続いていたら、この集団は全滅していた。
同書から 松浦 光二(二十二回分乙卒)
大然部落遭難記録
「アユの友釣り」に魅せられ40年余、赤石川に通ったが中流の堰堤から奥には釣行しなかった。地形的に非常に違和感と圧力感があったからだ。
鰺ヶ沢町赤石川流域「熊の湯温泉」近く、「自然観察館ハロー白神」のそばに、日本土石流災害史上に残る石碑がある。
「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅か に十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈 らん」
戦争末期、昭和20年3月22日午後11時に赤石川上流から押し寄せた「土雪流」で、集落2つが一瞬にして呑込まれ88名(一ツ森1名含む)の命が失われたのだ。
当時「東奥日報」から3度、又、昭和62年にも9回の連載があった。
「然ケ岳」の登山路調べで遭難記「岩壁・くら」(鶴田 要一朗著)に巡り会え詳細が分かった。
岩木山百沢土石流災害
昭和50年8月5日から7日にかけての東北地方の大雨により、蔵助沢中流部の百沢地区では死者22名を含む26戸が全半壊される史上まれにみる被害を出した。
山頂直下1,450mの崩壊地から谷底を削り三つの堰堤をも破壊し、百沢地区到達にはわずか10分ほどだった。地形的には分からないが、荒涼としたスキー場に比べ鬱蒼とした樹林帯に囲まれた「岩木山神社」が無傷だったのは…。
( 百沢スキー場開発当時、造成で残った土石残土が積まれていたが、これらにより土石流の流れが変わったとも言われている。)
岩木山遭難・大館鳳鳴高校生の五日間
下記書籍を参考に遭難経路をグラフィックスで分かりやすくした。
「空と山のあいだ」
岩木山遭難・大館鳳鳴高校生の五日間
田澤 拓也 著
「遭難誌」
岩木嶺に眠る兒らに
秋田県立大館鳳鳴高校 著
HP 「王子のきつね on Line」