730.8m 鰺ヶ沢町
長年、先輩とアユ釣りで通ってた「赤石川」。釣り場を変える度に流れや地形、空気に違和感が。図書館で「岩木山土石流」の資料を見つけ、隣に、大然村土雪流「岩壁・くら」の小冊子が。終戦間際の遭難は多くを語らず封印されていた。多くの遭難者(88柱)が荼毘で、河原が白くなったと伝えられて、雪解けとともに毎年訪ねるが竿を下すことはない。
「熊の湯」温泉旅館と赤石川渓流を前に、屏風のように荒々しく岩壁(くら)を見せる「然ケ岳」。「くろくまの滝」へ通じる県道191号は「然ケ岳」へ通じる橋の前で土砂崩れ通行止。山頂は見通し悪く「二等三角点」のみだが、「白神自然学校一ツ森校」や「種里光信公の館」ほか「大然土雪流遭難」に関する歴史碑、各種団体によるスノーシューなど催事も多い。
絶滅危惧種に指定されてる「アオモリマンテマ」は、人を寄せ付けない急な岸壁(くら)に
2015.5.16
鰺ヶ沢町赤石川流域「熊の湯温泉」近く、「自然観察館ハロー白神」のそばに、日本土石流災害史上に残る石碑がある。
「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅か に十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈 らん」
戦争末期、昭和20年3月22日午後11時に赤石川上流から押し寄せた「土雪流」で、集落2つが一瞬にして呑込まれ88名(一ツ森1名含む)の命が失われたのだ。
当時「東奥日報」から3度、又、昭和62年にも9回の連載があった。
然ケ岳」の登山路調べで、遭難記「岩壁・くら」(鶴田 要一朗著)に巡り会え詳細が分かった。
又、私版「八甲田山」旧制弘前高等学校生・遭難の記」も、昭和18年2月、負け戦に突入せんとす時期に弘前高校生44名が南八甲田で遭難した。当時の状況から公に出ずに葬られた歴史は、東奥日報にも少しの行を割いただけだった。
「消えた村・20年3月・大然災害」 鯵ヶ沢支局長が生存者を訪ね、運命の道筋を辿る。昭和62年夕刊に8回連載。