9. 飛行少年たち(3)

「三沢航空祭」
「三沢航空祭」

 昭和42年5月20日、三沢「三軍統合記念日」として基地を開放してから33年。毎年9月中旬に「三沢基地航空ショー」が開かれる。
 全国で開催される航空ショーは
30ケ所程だが、全国の航空マニアは「MISAWA」は特異とおっしゃる。
 滑走路に席を陣取りパイロットと酒を酌み交わし、英語と津軽弁のマッチングが国境、軍民、基地問題等の壁を越え大宴会と化す。北は千歳基地から南は那覇基地まで、『交流度』から言えば全国一の「MISAWA」である。
 さて、前回の「太平洋無着陸横断」で、「タコマ市号」「報知日米号」「第3報知日米号」の失敗の後、昭和6年、アメリカ軍人トーマス・アッシュが東京の 朝日新聞社の広告「成功すれば日本人には10万円、外国人には5万円を提供する」との発表に挑戦。「タコマ市号」を整備し「パシフィック号」と命名、自信 満々で6月1日に淋代海岸から離陸しようとしたが失敗。

 同年に、今度はアメリカ青年ドン・モイルとセシル・アレンが「パシフィック号」を大改造し、「クラシナマッジ号」と名付けて同じ淋代海岸から見事離陸するが、間もなくガソリン漏れのためカムチャツカ半島の無人島に不時着。しかし、約1カ月後にはなんとかタコマ市に無事到着する。そして本命の「ミス・ビードル号」(クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドン)が、同年10月4日午前7時1分、淋代海岸から41時間13分、約8千キロの飛行でワシントン州ウエルナッチ飛行場に無事着陸、偉業を達成する。
 この模様は最近、 知坂 元氏(弘前市在住・「卍弘前城物語」の原作者)が新聞紙上で紹介。また、平成9年11月には「おおぞらのゆめシンポジウム」が当地で開かれ、「青森県の航空史」をミュージアム建設とともに世界へ発信しようと動き出した。


10. さざえ堂

「不識塔、六角堂、さざえ堂」
「不識塔、六角堂、さざえ堂」

 さざえ堂(18世紀の末ごろ、江戸から東北にかけて建てられた、内部がらせん状のスロープを有した仏堂)を訪ねて全国を歩き始めた原点は、西目屋の「不識塔」(しらずのとう)にある。
 40年振りで足を運んだ残暑厳しい西目屋・川原平地区は、近隣に「白神山地ビジターセンター」や「アクア・グリーンビレッジANMON」などのレジャー施設が出来たせいか、県外ナンバーのマイカーがいとまない。
 焼山平と呼ばれる小高い山に忽然と姿を見せる「不識塔」は、高さ20メートル、総レンガ造りで宝珠の形ともガウディのサグラダ教会尖塔にも似た、あたりの風景と相容れない様相である。役場の「崩壊に付き立ち入り禁止」の看板は悲しいが、昔と変わらぬ威厳を保つ。塔の基部に、弘前出身の事業家故・斉藤主氏が、ホルマリン漬けで昭和55年まで埋葬されていた。

 弘前市・西茂森の「六角堂」も内部がらせん状になっており、子供の頃の遊び場だった。昭和55年に弘前市文化財に指定され、現在はお参りする人も少なくなったせいか施錠されている。
 近くの「蘭庭院」から鍵を借り二重の観音開き戸を開けると、猛暑にも関わらず内部は明るく涼しい。武者窓とらせん構造が通気を助けているのだろう。奥に 進むとかつては「八大尊」があった場所に、飢饉で亡くなった子供を供養する100体余の石仏や菩薩像、そして建立した中田翁の彩色像が安置されている。最後の11段の階段を降りると元の入り口に戻り、阿弥陀如来の体内を巡り、罪が消え新しく生まれ変われる体験信仰となる。
 会津若松市の旧正宗寺「さざえ堂」は、日本唯一の塔形式・五層建てで一見の価値あり。